さて。
次の更新です。
その前に
今回、勉強会&読書会を一緒にやらせてもらっているサイト、♪芽莉衣♪さんのブログです。
魔女の帽子同じ作品であっても、
「そうだったのかあ」とするどく解説してくれて、驚くことばかりです。すごく勉強になります。
パンドラの匣に『死生』という節があります。
ここでは、鳴沢イト子さんの死についてかかれてあります。
一番、どきっとした部分が、ここ。
『
よいものだと思った。人間は死に依って完成
させられる。生きているうちは、みんな未完成だ。』というくだり。
まあ、聖書をお読みになっていらっしゃたのだからこのくだりは、
ありなのかもしれない。
続いて(2、3行飛ばしています)
『
人間は、死んでから一ばん人間らしくなる、』
ここが、まあ、これ読んだ時、ぞっとしたわけなんですよ。
太宰氏が自殺願望が強い人だと思って読むとね。どうしても、
「だから死にたかったのか。」
と、思えてくるわけですよ。
まあね、(というパラドックスも成立するようだ。) に続いていくわけですから
そんな風に思って死にたいわけじゃなかったろう。とは思いますが、
作中の中にも『君、思い違いしてはいけない~』とか書かれてあるしね。
けれども、なかなか私の中では煮え切らない部分です。
また、
『
~僕たちはもう決して、鳴沢さんを忘れる事が出来ない。』
というくだりに、彼が死というものをこうやってみているのかあ。
と、妙に納得したりもしました。だから、死はよいものになるのかな。
私は、死は遺されたものにとっては、哀しみと虚しさと後悔と悲痛さだけしかない。ものと思っているから
こういう文を読むとね、自分と照らし合わせて、「私も母を決して忘れることが出来ない」ということは、母は亡くなってしまったけれど、私はずっと哀しいままだけど、母はよいものだったのかな。と思えて
なんとなく救われたような気がしました。
複雑なんですけど。
まあ、私は年月も経っていますから。
後ね、やっぱりここの節全体は、「闘病日記ありき」の中で書かれたものとしたら、
読んでてこれも複雑ですね。
そして、『白痴』について。
どこかの箇所に
『白痴のような~』っていう文があって、
これって、私、「ヴィヨンの妻」にも書いてあって、「桜桃」にも書いてあったような、
「斜陽」にもあったような、なかったような。
彼は、ところどころにこの「白痴のような」という語を書いているわけで、
これって。
彼自身の子供について、ここにこうして提示しているような気がするんです。
確か、彼の子供がそうでしたよね。
彼自身、その子がとても気がかりで、そこには、作家太宰治ではなくて、
ただの一人の男親、ただの太宰治が気に悩んでいた子のことを書かずにはいられない、
普通のお父さんの悩む姿を垣間見ていたりしたんですが、・・
これは、私の勝手な思い込みです。
『パンドラの匣』という題に惹かれて、今回の読書本を選ばせていただきましたが、
読めてよかった! うれしいです。
読書会を、
この機会を設けてくださった♪芽莉衣♪さんに感謝します。ありがとー
読書会、楽しいです~♪♪♪
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